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フリースクールという選択の自由

一人暮らしをはじめてもうかなりの年月が経過したように思う。

ずっと自由気ままに一人で暮らしてきた。

そんな生活も9月から変わるかもしれない。

 

私には、9人の甥と姪がいる。

 

そのうちの1人、中学一年生の姪が、

本日から、大分市中判田にあるフリースクール「ハートフルウェーブ」に体験入学に来ている。

8月18日に私1人で見学に行き経営者の女性の方とお話をさせていただいた。

8月26日に姉と姪と3人で見学。

そして本日、8月28日から体験入学&お泊まり。随分テンポ良く物事が進んでいる。言うなれば、それだけどうしようもなくなっていたという事だろう。

彼女は今年の5月から、殆ど登校していない。

学校嫌いの私は、

・行きたくない所には行かなくて良い。

・一緒にいたくない人とは、別に一緒にいる必要はない。面倒だし。

・ましてや自分の心身に危害を加えそうならば、なおのこと。

と、思っている。

しかし、社会の構造上、学校に行くこと、教育を受けることは必要なことだ。と認識している。

それに、無知であることは、特に女の子にとっては危険極まりない事だ。とも思っている。(犯罪者は確かに悪い。しかし、罪を犯させてしまう罪もある。)

それ以前に、世の中は広いのだから、もっと周りも見てみればいいと思うし、狭い世界、例えば彼女の場合であれば、物に溢れた汚い自分の部屋に固執していることはないのではないだろうか。

また、感情のコントロールが出来ない彼女は癇癪持ちだ。しかし、これは多かれ少なかれ、大人でも持ち合わせている。それを出すか出さないかは、様々な要因にもよる。

己を見失う我が儘な姿は、獣と一緒だ。

それを恥ずかしいと思えなければ、それはマズイ。

因みに私には、過去そのような時期があった。だから必要以上にまともな道を歩みたいと思うし、ひとに迷惑をかけまくった分、どこかで人の役に立てるようになりたいと考えるようになった。

(実際、役に立っているかどうかは別として。)

 

狭い場所、少ない人数の中で貼られてしまったレッテルは、なかなかはがせる物ではない。

「そんなの関係ねえ」と、言い続けられる強さがあれば良いが、なかなか人間、そう強くはない。

どんなに強そうに見える人でも、いやむしろそういう人の方がそれ相応の弱さを含み持っている。

ただ、人は表面上しか見ない。

どんなに中身が素晴らしくても、その中身まで理解しようと努めるだけの余裕を持ち合わせている人は、そんなに多くはない。

だから外側を繕うことも必要なのだ。

 

話がずれた。

 

「学校に行っていない」という後ろめたさは、学校へ行くことが出来ない子供の中にあるのではないだろうか。

自分でわかっているだけに、反発もするだろう。

誤りや勘違い等を指摘され、またそれが図星で、逆ギレしてしまう大人となんら変わらない。

 

世の中に「これが絶対正しい」という事は無い。

 

おそらく姪は、このフリースクールを気に入り、通う事になるだろう。

そして、私は彼女と一緒に暮らすことになるだろう。

私は、自分以外の人間が自宅にいる。という環境に免疫がない。全くというほどに。

世の中に正解は無い。

どうにかなるだろう。

多分。

やってみないことには、何事もわからないものだ。

 

2 Responses to “フリースクールという選択の自由”

  1. katafuri より:

    私は船乗りですが、他人と暮らすのは 最低限のルールというものが
    必要だと思います、そのルールが守れないと 共同生活は非常に
    つらいものになると思ます。
    自分の好き勝手に生きるのが世の中ではないですもんね…….

    • Belle より:

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