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「わかりやすい」という罪

今は、なにかと「わかりやすさ」を求められる。

 

わかりやすく説明することが、専門性を持つ仕事を行う人間の義務でもある。

 

説明した相手が理解することが出来てはじめて、自分も理解していることになるともいえる。

 

恩師の一人は「人に教えることが一番勉強になる」と仰っていた。

 

確かにそうだ。

 

専門性のある言葉、逆に言えば一般的に使わない言葉を、人に伝えることは通訳や翻訳に似ていると思う。

 

そういえば、ずいぶん前に読んだある通訳者のエッセイの中の問答が面白かったのを覚えている。

 

世の中は、結構こんなんで溢れているんじゃないだろうか。

(以下、引用)

 

質問一

長寿者の食生活はどうなっているのでしょうか。

 

回答(ロシア語で)

蛋白質、灰分、繊維、ビタミン、ミネラル、炭水化物は豊富に摂取しますが、動物性脂肪はほとんどとりません。

 

通訳

長寿者のみなさんはたっぷりと栄養をとっております。

 

質問二

では長寿者の皆さんは普段どんな生活、どんな仕事をしておられるんでしょうか。

 

回答(ロシア語で)

長寿者は主に、ブドウやナシ、アンズなどの果樹栽培、羊や山羊などの牧畜に従事しております。

 

通訳

はい、長寿者のみなさんは、毎日元気に働いております。

 

 

この時の通訳者は、いかにも自信たっぷりに堂々と、うっとりするほどよく通る美しい声で訳すものだから、当日会場に居合わせたロシア語を解さぬ大多数の聴衆は、まさか通訳のところで大切な情報が濾過されているとは露ほども疑わなかったのではないだろうか。そしてコーカサスの長寿学ってのは、ずいぶんアバウトでのどかなものだなんて感想をもったのではないかしら。

 

とにかく通訳の段階で切り捨てられてしまうと、結局言わなかったと同じことになるという、至極当然でありながら、見過ごされることの多い真実が、ここに厳然とある。さらには、門外漢にとって分からない情報というのがいかにゼロに等しいかということが、この例でもよく分かる。

 

(『不実な美女か 貞淑な醜女か』米原万里・著 より)

 

 

 

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