操作するための「あれ」とか「これ」
「人間の苦しみというものは、結局は自分自身しか解らないということだな。
そしてそれは自分が自分で処理するしか仕方がないものだ、
それよりほかにどうすることもできないものだということだな。
俺はいま苦しんでいる。俺ばかりではない。栄叡も玄朗もみな苦しんでいる。
併し、お前はいま苦しんでいない。運のいいことに苦しみから抜け出してしまっている」
なんと厭なことを言う奴だろうと、普照は思った。
言われた通り普照はいま自分が、きびしく考えれば、誰の苦しみにも同情していない事を思った。
気の毒には思っているが、それをどうしようもないし、どうしてやろうという気持ちもなかった。
それにしてもそれを指摘されることは愉快なことではなかった。
すると、そういう普照の心を見透かしてでもいるように戒融は語を継いだ。
「気を悪くするな。俺はただ本当の事を言ったまでだ。
俺とお前の立場が変わっていれば、俺もまたお前と同じだ。
人間とはそういうものだ」
(『天平の甍』井上靖より引用)
苦しみの中にある人は多いのだろうが、安易に「わかるわかる」と私は言わない。
基本的に、「人と人とはわかり合えないもの」という考え方をベースにおく。
例え、きょうだいであっても、同じ環境に身を置いていても、全く同じ考えというものにはならない。理屈をこねるなと言ったらそれまでだが。
「わかるわかる」と、共感をして同じ目線に身を置いてしまうと、見えるものも見えなくなってしまう可能性がある。
その場を穏便にやり過ごしたければ、それでも良いかもしれない。
例え、傍目には、「被害妄想」や「小さな悲劇のヒロイン」に浸っているように見えても、それはその人にとっての真実。
その真実の枠を外すなり、ずらすなりするには、今までの、見方・考え方に操作を加える必要性がある。
その操作が「あれ」なのである。そうそう「あれ」だったり、「これ」だったり。うん。
そういえば「同士」という言葉がある。
「同士」には条件があるという。
それは、各々がきちんと自立していることだという。
例え自分がひとりになっても、進みたい方向に向かっていけるのか。
ひとりになっても、そこに向かいたいのか。
自分のケツの始末を自分でつけられるのか。
(あら、ちょっと下品)
(色々煮詰まって、久しぶりに読書に逃げ道を求めたら、テンションが上がりました。
逃げて上がるって、なんなんでしょうね。
わりと変態なのかもしれませんね。すいません。)