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精神の死とアイデンティティと鍼灸

「認知症は〈精神の死〉」という言葉をよくお話していたら、「よく解らないので説明して欲しい」と言われました。

個人的には、東洋医学の中で「精と神」「七神」「七情」の話に感銘を受けましたし、現代社会に置いては非常に大切なことなのではないかと思っています。

とはいえ「確かに、よくわからんかもしれんな」と思いながら、説明するための資料を作っていて、ふと、頭に浮かんだ事があります。

「精神の死」を、もの凄くざっくりと言ってしまえば、心が空っぽになって、まるで抜け殻のように、身体だけが動いている状態と言っていいと思います。

言わば「心」が「死んでしまった」ような状態。

色々と、記憶をたどりながら思いました。

人間は、「必要とされなくなった」と感じてしまった時に、心が死んでしまうのかもしれないと。

そして、あくまでも自分で「自分は必要とされていない」と「感じて」しまった時に。

(私の役目が終わってしまった。的な)

例え、周囲の人はそのように「思っていない」としてもです。

とはいえ、自分が「必要とされている」もしくは「必要とされていない」など、はっきりわかることではありません。

(それどころか、無関心という事もあるかもしれませんが)

だからこそ、わかりやすく目にみえやすい「肩書き」や「役割」にしがみついてしまう人も多いのかもしれません。

(だからこそ、例えば、必死で権力を獲得したものの、そこを追われて放心状態になる。などといった場面も見られるのかもしれません。)

「世界は、私の〈表象〉である。」というのは、ショーペンハウアーの言葉だったでしょうか。

私たちは、見たいものを見たいように「見る」し、聞きたいものを聞きたいように「聞いて」います。

そして、目の前の事象を、自分の好きなように解釈しながら、必ず訪れる「死」に向かって日々生き続けます。

そういえば、とある人が仰っていました。

「人生は自作自演なのだ」と。

「必要とされる」も、「必要とされない」も含め、全ては自分自身で決めていることなのかもしれません。

ということは、自身を「生かす」も「殺す」も、自分次第なのではないでしょうか。

しかし、どうしても「受動的」な性格と「能動的」な性格というものもあります。

本来生まれ持った「素因」だったり、生きてきた環境で培ってきてしまったものだったり。

ということは、何はともあれ、「自分」はどの様なものかと分析し、知っておくのも良さそうです。

 

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