熊本活動報告(提出分1)
熊本での体験内容
この度の震災により被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
2016年5月1日~15日までの間、3回にわたり、延べ7日間、鍼灸ボランティアとして熊本入りした。
大阪の藤井先生より「今回の事を書いてみませんか。」とご提案いただいた。個人の視点は偏ったものになりがちである。そして書き慣れていないので稚拙な文章にもなるが、もしかしたら誰かの役に立つこともあるかもしれないと思い、報告させていただく事にした。
1回目は、5/1~3の3日間、阪神と東北の震災の際に活動された、鍼灸ボランティアのパイオニアである大阪の藤井先生[吹田市泉町 結(ゆい)鍼灸院・藤井正道先生(http://www.yuisuita.com/hobby/)]が中心となって立ち上げられた「チームオレンジ」に参加させていただき、東区と御船町へ入った。
初日は、東区の若葉小学校。避難所となっている体育館横の空間に、テントと車両の臨時治療所を設置し、対応させていただいた。暑い午後の体育館。ステージ上に積まれた支援物資。沢山のコンセントには携帯電話やスマートフォンが充電のために繋がれていた。地震の発生から2週間強。亜急性期から慢性期に移行しつつあるその空間には気怠さが漂っていた。
眠れない、身体が痛む、便秘またはその逆で軟便。肌はしっとりと汗をかいている。家を失った、または家に帰ることが出来ない現実と、ストレスという目に見えないものは徐々に人々を消耗させていた。避難所には子供もいた。とてもテンションが高く、抱きついてきたり身体に触れてくることが多かった。無意識的に、そして子供なりに気を使いながらも、やっぱり不安なのだろう。
翌日、翌々日は、御船町スポーツセンターにおいて前日と同じく、テントと車両にて施術をさせていただいた。前日までに宣伝等していただいていた効果からか、多くの方に治療にきていただけた。配給の帰りに立ち寄って下さった方もあったのだが、半透明のビニール袋の中身を見て驚いた。たまたまだったのかもしれないが、ビニール袋の中にはカップ麺・おにぎり・チョコレート。糖類と脂質。カロリーはとれても栄養はとれない。「食べられるだけマシだ」という人もあるが、そうなのだろうか。昼食のために入った、避難所から少し離れた所にある食堂で、野菜サラダ付きの温かい食事をいただき非常に複雑な気持ちになった。ここにあるものが、少し離れた場所には無い。
ここには自衛隊が入っており、避難者の方が入浴出来るようになっていた。身体を清潔に出来ることはかなり気分が違う。ボランティア参加の前に、家族、そして現地で活動をしていた自衛隊の友人に「女は捨てていけ!男っぽい格好で、すっぴんで行け!」とアドバイスされていたので、本当にすっぴんで3日間を過ごした。現地では、しっかりお化粧をなさっていた方もそれなりにいらした。聞いてみると「水道が止まっていて、ずっとお化粧できなかったから余計に(お化粧を)したくて」と。
避難所のひとつであるスポーツセンターの中には畳が敷かれていた。畳が入る前は、硬く冷たいコンクリートの上で過ごされていたのだろう。相当身体が痛んだだろう。お手洗いの中に、誰かが生花を飾ってくれていた。気持ちに少しでも余裕が出て来なければこういう事は出来ない。
「東北の震災の時は他人事だと思っていたけど、いざ自分が被災してこんなに大変だとは...。」こういう声も聞いた。
築170年の家にお住まいだった男性は、ガラスで大腿部を大きく損傷。しかし4日以上放置せざるを得ず、やっと医師に診て貰えたはいいが麻酔は無く、ハサミで切開、そして縫合されたという。想像するだけでも・・・。
コンクリートの上に設置したテントの中で目覚めた5/3の早朝。「ドンッ!」という大きな音と突き上げてくるような震動を体験した。こんなことがしょっちゅうあれば、気が休まるはずもない。
今回、意外なことに、営業しているお店は思いのほか多く見られ(もちろん営業時間は短いが)、私たちは被災地入りする以前の予想に反し温かい食事をいただく事ができた。私には帰る家があり、そして数日後には特に不自由のない生活を過ごす。しかし、避難所におられる人達はどうなるのだろう。この先支援が無くなった時どうされるのだろう。そんなもやもやした気持ちを抱え初めてのボランティアを終えた。しかし、収穫は多かった。チームリーダーの藤井先生の発想力・判断力・行動力とそのスピード等々、多くの事を学ばせていただいた。また、ご一緒させていただいた登山家の吉田智美さんには強く心を打たれた。順番待ちの方との対話から、即座に買い出しに出かけ、大量の林檎と牛乳を避難所へ差し入れた。このシンプルな行動に感動してしまった。(いかに、普段ごちゃごちゃと要らぬ事を考えすぎているのかと。)
2回目は、5/7~8の2日間、[特定非営利活動法人AMDA(http://amda.or.jp/)]の活動に参加させていただき、益城町へ入った。現在は閉鎖されているテント村、また避難所となっている広安小学校の体育館内の倉庫に設置された看護室で施術をさせていただいた。テント村にいらした子連れのお母さんが「眠れないから、お酒飲んで無理矢理寝てる。」と仰っていたのが気になった。今は、どうしておられるのだろうか。
カルテの治療者名の中に、お世話になったことのある先生の名前があった。後日その先生に伺うと「安定剤等の投薬が投与制限値に達してしまったので要請があったんですよ。」と当時のことを教えて下さった。目の前の人にとって今何が必要かという事を第一に優先して判断され実行される。ここでは、本来の意味での「統合医療」が機能しており、理想的な医療を垣間見ることができた。様々なことにいちいち感動した。夜10時頃まで行われた(前日は11時を過ぎていたとか)全体のミーティング。それぞれからきめ細やかな報告があり、その対処が決まる。それを終えてから宿泊所への移動。朝も早かった。朝食を取りながらミーティングをして、それぞれの動きが決まる。ハードではあるが、もっとここで活動をしたいと思うほど、非常に魅力的な団体だった。
ただ、煙や火の始末など防災上の問題もあってか、お灸を使うことが出来ず、鍼のみでの治療であった。お灸を使えないことは非常に心細くもあった。鍼治療の精度を上げることが、今後の課題となった。
3回目は、5/14~15の2日間、[災害鍼灸マッサージプロジェクト(通称・災プロ)代表・三輪正敬先生(http://shinkyu-sos.jimdo.com/)]という、東北の震災以降様々な被災地で活動を行っておられるチームに参加させていただき、西原村・南阿蘇へ入った。赤い紙を貼られたご自宅の前で片付けをなさっていた初老の男性が「雨が降ったら、上から押し流されてくる。もっと酷いことになる」と仰っていたことが強く印象にのこっている。(そして梅雨時である現在、九州も記録的な大雨に見舞われている。)
初日は西原村の、自主避難所となっていた公民館へ、翌日は、南阿蘇村のグループホームにて、スタッフの方に対し施術をさせていただいた。前回、前々回もだが、若い方は仕事や片付けに行かれているからか、非常に高齢者の姿が目に付く。特にこの地域は高齢者の割合が多いようにも思えた。
グループホームで治療をさせていただいた際、「利用者の方は、地震で不安になられたりしませんか?」と伺って「地震があったことも覚えていないですよ。」と返って来た答えが物悲しく思えた。
4/14を境に、それまでの日常が壊れ、身の回りの環境が大きく変わった。けれども普通に仕事はある。中には、グループホームで仕事をしながら、ご自宅で親御さんの介護をなさっている方もおられた。非日常のなかで日常生活を営む事は、どれだけ気力や体力を消耗させてしまうだろうか。
「よそに比べたら、まだマシな方だから。」この言葉をよく耳にした。他の地域とも、また、自分以外の人間とも比較できないことを比較していた。嘆いても悲しんでもどうにもならない現状を悲惨なものにしないように、またご自身を励ますための言葉だったのだろうか。その人にしかその人の気持ちはわからない。しかし、そういったセンシティブな問題も含めた上で活動されている災プロの先生方と、今回ご一緒させていただけたことは大きな学びとなった。
この活動の後、阿蘇大橋の近くまで連れて行っていただいた。立ち入り禁止の黄色いテープが貼られ、当然のことながら崩落箇所を見ることは出来なかったが、「赤い橋は本当に無くなったのだ」と確認し、そして切なくなった。