こころの病とお灸について
せんねん灸の創始者は、患っていた神経症に対しお灸でアプローチしたことにより快方に向かったことが、せんねん灸という膈物灸の開発・商品化につながったという。
「鍼灸」という「健康」というカテゴリに分類される仕事をしていると、「良くなりたい」というかたちで、あらゆる「何か」を求める多くの人と出会うことになる。
お灸について「灸は身を焼くのみにあらず。心に灯を灯すものなり。」と言う文言をどこかできいたことがある。
それは弘法大師空海の言葉だと、誰かが言っていたような気がする。
未だその原文を見つけることは出来ていない。
先日、梅原猛氏・著『空海の思想について』の中に、
「世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している。ひとはまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ。」という文章を見つけた。
求めるものは自分の外ではなく、自分の中にあるのだから、外に求めるのではなく中に求めよといったことだと解釈している。
「◯◯出来たら自信が持てる」「◯◯があれば幸せになれる」「◯◯さえあれば」「◯◯がないから出来ない」「◯◯がないのが悪いのだ」…etc…といったフレーズを耳にしたこと、口にしたことはないだろうか。
おそらくその「◯◯」という外部のものにとらわれている間は、何も見つけられないし手に入らないのだろう。
日本という島国は、日本の外にある大陸から多くの文化を取り入れた。
それは物であったり、技術や学問であったり、宗教であったり。
日本という国の凄さは、取り入れた物をそのまま利用するのではなく、日本の風土や人間性にあったものへと創意工夫を重ね進化させていったところにあると思う。
一個人に置き換えれば、自分というものを分析できていたからこそ、外部のものを取り入れることができた。
しかし、闇雲に外部のものを取り入れても、それは自分自身にとっても外部のものにとっても、互いがそれぞれに活かされることなく、無駄に消耗してしまうように思える。
しかし、バタイユの「消費」についての文脈を思い出せば、それはそれでいいのかもしれない。そんなものなのかもしれない。
「灸は身を焼くのみにあらず。心に灯を灯すものなり。」
こころに灯を灯すとは、人を人として動かしている、人間の奥深くにあるものに火をつけるものなのかもしれないと思う。
東洋医学的にいえば、人間を人間たらしめている五蔵へのアプローチだと。
その手段として鍼やお灸を使うのだが、そこには五蔵の診断がないことには対処も出来ないのではないだろうか。
とはいえ、とりあえず気鬱になると気血のめぐりが悪くなって冷えるので、せんねん灸を据えてみるというのは手軽で良いのではないだろうか。