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「しあわせ」という形のないものに、モデルケースを求めるのはなぜだろう

 

 

 

 

 

 

 

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「こうふく」や「しあわせ」という目に見えないもの(抽象的概念)について考えてみる。

今年の後半に入ってから、復興支援の一環でパックツアーを作っている。

大分空港から熊本空港まで、東九州の自然の中を巡り、沢山の神社をお参りしながら人生の大禊をしようというもの。

生きていれば色々あって当然なわけで、それらを自然と神社の力を借りて、心機一転まき直していきましょうよ、というのが趣旨。

あったことを無くすとか、消してしまうとか、忘れるというわけではなく、そういう事もあったけど、それはそれで自分を構築しているものだと認めて、また日常を送りましょう。

そのお手伝いを九州の自然がしてくれますよ。というツアーである。

幸か不幸か、陸の孤島とも呼ばれていた東九州では日本の原始風景に触れる事が出来る。

その大らかさに、包まれると価値観は変わる。

ツアーに関連するあやしげなアメブロも作成中である。

「神話の里 高千穂郷生まれの経絡治療家が 熊本・大分地震より導く「こうふく論」〜本当の幸せを手にするために・ホンタウノ シアハセヲ テニスルタメニ〜」というタイトル。

「こうふく」を平仮名にしているのは、人によって当てはめるものは変わるから。

幸福、康復、興復、降伏…等々。

「しあわせ」も捉え方は人それぞれ。

だけど、どうしても比較したくなるのが人間。

「あの人と比べて自分はどうだろうか。」

大きな目標があると、皆でそちらを向きながら進んでいけるので、非常に安心感がある。

周りを見ながら、同じように歩んで確信する。

「大丈夫。これで間違っていない。」

社会主義国みたいな資本主義の国だから、そんなもんかもしれない。

いろんな事を我慢したりしながら頑張っていたら、いつか「幸せ」を誰かが与えてくれるかもしれない。と思っている人は実は多いのかもしれない。

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