年齢を重ねるという事は本能がむき出しになってくる事でもある。
先日のクリエィテブ云々にしても、少子・高齢化、晩婚傾向、待機児童問題等々、何か色々と山積している問題。
問題に対して、意見が出ることは素晴らしい。
お金と時間を使ってああいう場を設けることも素晴らしい。
で、実行に移されるのかどうかが問題なんだけど、どうなんだろう。
時間とお金をかけて議論だけがなされて、結局何も変わらないということもある。
何か意見を出す、何か行動を起こすということは、必ず横槍も入るし足引っ張りもある。
田舎へ行くほどあるあるではなかろうかと思ってしまうのは、単なる私の思い込みだろうか。
横槍や足の引っ張り合いというのはなぜ起こるのだろう。
感情なのか理屈なのか。反対することも意志を表示している事になる。そこには理由と代替案はあるのだろうか。
だいたいは、自分に利益がない、もしくは損失が出るという理由があったり、やろうとしているあいつが気に入らないという感情だったりするのだろうか。
目先の利益は大切だ。みんな生活があるし、少しでも利益を得たいと思うことは当然だ。
しかし、自分さえよければいいというのは、結局自分の首を絞めることになる。
人間は生殖可能になった時点から衰えていく生き物だ。
今は元気で体も動くだろう。しかし徐々に、そして確実に日々衰えていく。
下降曲線を生きることを念頭におきながら、自分との付き合い方を考えていく。
そうすると少しは穏やかに生きられるかもしれない。
自分は日々すり減っているのだと思うと、無理して人にあわせることも減るかもしれない。
その分大切なものが見つかるかもしれない。
将来認知症の人間は相当数の増加が予測されているが、発症するかしないかはその人の20〜30年前からの日常生活の積み重ねにも左右される。
出来るだけ御世話にならないように心がけて生きるのか、御世話になるかもしれないという事を見越して自分の周囲の構造を整えていくのか、両方やっていけたらベストかもしれないが、現実はどうなることやら。