人とはわからないもの
人とはわからないものだ。
自分の事もわからない事があるというのに、どうして自分以外の事を決めつけられよう。
しかし、いとも簡単に「この人はこういう人だ」などというレッテルは貼られ、それはなかなか剥がされることはないことが多い様に思う。
どうしてだろうか?
古い中国医学では、身体の中に目に見えない大切なものが存在すると考えられた。
それらがバランス良く保たれるように、大きく崩れたりしないように、また崩れたのだとしたら、少しずつ立て直していける様に、ゆっくりと保養をして行くことが治療であった。
力と力でぶつかり合うのではない。
闘うのではない。
少しずつ少しずつ保養をする。
人間は生まれた瞬間からひたすら消耗を続けて行く。
それは加齢であり、過労であり、飲食であり、知的活動であり、気持ちの変化であり、自分以外の人間との、または自分自身との関係性の不和であり…etc…
その消耗を、ひたすら保養していく。
それらは目に見えず、わかりにくいものである。
消耗していることも目に見えず、保養されていることも目に見えず。
目に見えず、わかりにくいものの多くは不要とされがちである。
消耗が進み、ある日突然症状が現れて、そして初めて気づく。
表面に現れた一面だけに気を取られ慌てふためく。
その内側で何が起こってきたかということも考えられずに。
目の前に笑顔を絶やさない人がいる。
この笑顔の向こうには、何があるのだろう。
〈人間の心は、だからさまざまなものが絡みあい、混沌とした泥沼のようなものなのだ。
合理主義の分析では、その表面しか掴めない。深い沈殿物を持っているものだ。
「わたしにはあの人の心がわかる」とわれわれは、軽々しくそう思い、他人を自らの浅はかな眼で限定しようとする。
しかし一人の人間に、もう一人の人間の心の底が本当にわかるのだろうか。
長年連れそった夫婦でさえ、ある時、ある瞬間、相手の心を測りかね、相手の中に自分の知らぬ別の男、別の女を見て愕然とすることがある。
だからこそ、われわれは人間にたいして傲岸になってはならぬと思う。
人間がわかる、他人がわかると軽薄に思いこむべきではないと思う。
むしろ、人間の心の深さ、心の深遠に脱帽すべきなのである。
他人がわかると思い、その人を軽々しく裁いたり、罰したりできる者こそ、「人間を知る」地点からもっとも遠い。
遠藤周作『お茶を飲みながら』より抜粋・引用〉